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11月, 2003の投稿を表示しています

母の夢 母の声

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『死』は突然やってくる。 何の前触れもなく、心の準備もないままに、本当に突然。 去る11月6日午前5時32分、私の母が他界した。 母は生前、とっても快活でパワフルな人だった。 寝込んだのは10月に入ってからだったが、それでも10月4日・5日と旅行に行ったりしたのだ。だが、10月14日に入院し、病名がハッキリしないままに27日に急変、28日に救急車で2時間もかけて新宿にある甲状腺専門の病院に転院し、そこで初めて「膠原病・皮膚筋炎」と病名を言われ、29日に再び今度は都立O病院に転院となり、2日後にはICUに入り、そうして6日には亡くなってしまうという、なんとも短い間のめまぐるしい出来事だった。 母が寝込むようになってから入院するまで、私たち家族はただの風邪くらいにしか思っていなかった。 母はいつになく気弱で「私、本当に元気になれるのかしら。なんだかこのまま元気になれないような気がしてならないのよね。」としきりに言っていた記憶がある。 私たちはそのたびに一笑し、そんなわけないじゃんと言っていた。 入院後も母は同じように「元気になれない気がする」と言っていたが、私たちはずっと『いつか必ず元気になれる』と信じて疑わなかった。 私たちが母の『死』を意識し始めたのは、都立O病院に転院してすぐのことだ。 担当医のO先生から、最悪の場合、今から早くて3~4週間かも・・・と説明されたからだ。 このことは誰も母の耳には入れなかったが、この日の夜、母が入院して初めて母の夢を見た。 実際は寝たきりで起き上がることの出来ない母だったのに、O病院では酸素マスクを着用していたのに、夢の中の母は酸素マスクをつけておらず、病院のベッドで上半身だけ起き上がっていて、母はその姿勢のまま、しみじみと「あのね、このまま回復しなかったら、私はやっぱり死ぬことになると思うの。」と言っていた。 夢の中の私はなんと言っていいか、母にかける言葉がなくて、しばらく沈黙が続いた。 今までのように「何言ってるの。そんなわけないじゃん。」などと気軽なことを言うことが出来なかったのだ。 しかも、この夢はこれで終わりだ。 そして、母がICUに入る前日、私は再び母の夢を見た。 母の夢と言っても、母と話すことはなく、そのときの夢では、どうやら母は14日に入院し、2週間ほどいた地元のK病

「さよなら」ではなく

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苦しみから解放される瞬間 遺される人々のことが頭をよぎる たくさんの人々 私は恵まれていたね ありがとう ありがとう でも私は これからも見守り続けるから 身体は眠っていても だから 「さよなら」ではなく 「おやすみ」 心からの、ご冥福をお祈りいたします。 この詩は輝夜さんと、輝夜さんのお母さんに 捧げさせて頂きます。 by 山吹 山吹さん、いつも気にかけてくださって ありがとうございます。 思うとおりに生き、300人近い沢山の友達に見送られ、 母は本当に恵まれていました。 『わが人生に悔いなし』 これは母のためにある言葉のように思います。 あんなにも生き生きと生きた母の魂と想い。 その情熱を私は受け継いでいきたい。 過ぎ行く時間の中でそんなふうに思うようになりました。 ※この詩はポエムサイト「月姿姫~ツキジヒメ~」を運営していた頃  私の亡き母のために紡いでいただいた言の葉です。  ポエムサイトを運営していた頃の私は「輝夜」というHNでした。 素材: Atelier N(アトリエ エヌ) 様

母に捧ぐ鎮魂詩

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くちづけたかった 冷たくなっていくその頬に くちづけたかった ぬくもりの残るその手の甲に 涙だけがとめどなくあふれて 心の中で ただ あなたを呼んでいた 私の声を聴いて この呼びかけにこたえて もう一度目を開けて 私に微笑んで・・・ そう願い それと同時に圧倒的な絶望が その願いは叶わないのだと 無情に告げる その夜は月も蒼褪めて 猫はお別れの唄をうたい 途切れることのない細糸のような煙は 新たな世界へ続く道の導となった 私の涙で あなたが溺れてしまわないように 私はもう泣いたりしない 遠く隔たれた時の向こうにいても あなたと私との縁は いついつまでも変わらないはずだから いつか私も あなたと同じ世界に行くことになる そのときまで・・・ おやすみ お母さん この詩は、母が亡くなった時の気持ちを そのまま言葉にしたものです。 最後の最後まで母の死を考えられなかったから、 冷たくなりつつある母を目の前にして、 ただ心の中で母に呼びかけながら 「取り乱したらいけない」 「取り乱したらみんなを困らせてしまう」 「私は長女なんだから」 と心の中で自分に言い聞かせていました。 もっともっと声を張り上げながら、泣き叫びたかった。 悲しみの涙に飲み込まれて、私こそ死んでしまいたかった。 でも、そんなことは母は望んでいないだろうから・・・ そんな気持ちの中から生まれた詩なのです。 素材: Little Eden 様

イノチノ唄

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月は唄う 命の唄を 精霊は集う 魂を導くために 夜風に見送られて 優しい笑顔の人が逝く 思い出を胸に抱きしめて 涙を流す人がいる 時はゆっくりと流れ 万物と共に命は移りゆく 今 私の隣を飛ぶ紋白蝶は いつかのあなたの生まれ変わりかもしれない 輪廻   私も貴方も巡り行く 月は今 終らない唄を詠い そして今 私も唄を詠いましょう あなたのために ただ あなたのためだけに 私はあなたを忘れない あなたと あなたを思って涙する人たちに ちっぽけな私の思い 届くように願いたい 輝夜様、ご遺族の方々、 そして亡くなられたお母様に (稚拙ながら)この詩を捧げます。 輝夜さまのお母様に、心からご冥福をお祈りします。 by 弥生 弥生さん、素敵な詩をありがとうございます。 いつか必ず訪れる『別れ』―――。 わかっていたけれど、それでも いくつになってもこんな別れは辛いものですね。 いつか母の魂も安らかな流れを経て 『輪廻』という名の環に回帰して 再び巡り会う日が来るでしょうか? そんな日が来ることを願ってやみません。 ※この詩はポエムサイト「月姿姫~ツキジヒメ~」を運営していた頃  私の亡き母のために紡いでいただいた言の葉です。  ポエムサイトを運営していた頃の私は「輝夜」というHNでした。 素材: Little Eden 様

貴方の遺したもの

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この雲のこの空の上 一体何が存在しているのだろう 貴方はこの空の何処かに 居てくれるのだろうか 涙が溢れて溢れて どうしようもない私に 微笑みかけてくれているんだろうか 貴方が私に遺していったもの 財産とかそんな物じゃない 数々の思い出や面影 溢れる笑顔 かぞえきれない 優しさ、愛 もう肉体は失ってしまったけれど いつでも私のすぐ傍に 貴方が居る ・・・・ありがとう 貴方 そして さようなら 輝夜さんのお母様 ご冥福をお祈りします。 稚拙ですが輝夜さんのお母様にこの詩を捧げます。 by 冬華 冬華さん、心のこもった詩を 本当にありがとうございました。 母が私にくれたものは、なにものにも変えがたい かけがえのない『愛情』という名のぬくもりでした。 『お母さん』という存在は、ただそれだけで 『家族』という感じがするものなんですよね。 もう二度と生きている母と話すことは出来ないけれど きっと母はすぐ傍に・・・心の中にいつでもいる。 そう思っています。 ※この詩はポエムサイト「月姿姫~ツキジヒメ~」を運営していた頃  私の亡き母のために紡いでいただいた言の葉です。  ポエムサイトを運営していた頃の私は「輝夜」というHNでした。 素材:クリエイター =  Florian Kurz 様 / DL先 =  Pixabay 様

輝夜さんのお母様に捧げます

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今頃あなたは 遠くへゆく舟に乗り 宇宙の彼方へ飛び立とうとしているのか それとも 生まれた土 ふるさとの星のなかへ 溶けてゆくのか 会ったこともないわたくしすら あなたという方にであったような気がする それはあなたが残した遺伝子が あらゆるものに魔法をかけたから みんなどこへ あなたはどこへ いずれ我らも 我らはどこへ 生きる我らは 往く人の道を 照らすよりほかは… 河よ河よ流れておくれ遠い宇宙(うみ)まで 旅人を送り届けて 星が生まれるところへ 光が生まれるところへ 輝きのなかで一瞬のうちにすべてを悟り 過去と未来を知り 人生の美しかった時間につつまれて 次の命の種子となるあなたに 神聖なるものの祝福が慈雨のごとく 降り注ぐさまを 私は心に想う …輝夜さんのお母様に捧げます… by 遠野 遠野さん、いつもいつも私を気遣い 想ってくださって、本当にありがとうございます。 母が入院している頃から、母が亡くなったその後も 何通もメールしてくださいましたね。 とても励まされました。 母がこんなにも生き生きと誰かの心に息づいている。 それがとても嬉しいのです。 こんなふうに想ってもらえただけで 母は幸せだと思います。 ※この詩はポエムサイト「月姿姫~ツキジヒメ~」を運営していた頃  私の亡き母のために紡いでいただいた言の葉です。  ポエムサイトを運営していた頃の私は「輝夜」というHNでした。 素材:クリエイター =  Selling of my photos with StockAgencies is not permitted 様 / DL先 =  Pixabay 様

私からお母さんへ

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お母さんへ こんな風に手紙を書くことなんて今までなかったけれど 思い起こせば、私がまだ学生の頃に 交換日記をしたことがあったよね。 チーコが生きていた頃のことで懐かしいです。 こんな形で こんなにも早く別れがやってくるなんて思いもしなくて 正直すごくショックでした。 孫も抱かせてやれず この歳になってまで、ずっとずっと世話になりっぱなしで 結局親孝行らしい事は何ひとつできなかった。 ごめんね。 ケンカも良くしたし 生意気も沢山言ったけど やっぱり私はお母さんの子で良かった。 来世でも会いたいよ。 またお母さんの子でありたい。 そして、今度こそは孫も抱かせてあげたいし もっと長生きしてもらって 私もしっかりした子になって 沢山親孝行したいと思います。 この家でお父さんと二人になってしまって 私はお父さんとはウマが合わないから 色々苦労しそうだけど 何とか頑張っていくから見守ってて下さい。 お母さんにグチグチ言う事も多々あると思うけど 疲れるなんて思わず、今までみたいに聞いてね。 お母さんにしか私はグチれないし 本音を吐き出せないからさ。 せめて夢の中で会えたらいいナって思う。 たとえ住む世界は違っても 私たちはずっと親子だもんね。 助けたかったよ、お母さん。 一緒に病気と闘って ファイナルファンタジーのボス戦の時のように たとえ苦戦しても勝ちたかったヨ。 助けられなくて本当にごめんね。 私はお母さんから沢山の愛情をもらいました。 感謝してます。本当にどうもありがとう。 これからもずっとそばに居てね。 そして、きっといい世界へ行って下さい。 お母さんのために祈るし 自立する努力をしながらも、きっと忘れないから。 話しかけたりもすると思うよ。 言いたいことがあったら夢で教えてね。 今まで沢山の愛をありがとう。 これからはメールのやり取りみたいに気持ちの交換だね。 再会できる日を信じてるね。 おやすみ、お母さん。 ☆追伸 妹ともできるだけ仲良くやっていくように努力するから 安心して

父からお母さんへ

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お母さんへ はじめてお母さんを見たのは 工場の課別卓球大会の時でした。 場所は工場の組合事務所横にあった木造立ての体育館でした。 お母さんは経理の人と、 俺はたぶんAさんだったと思う。 ダブルでお母さんペアーと試合をしました。 勝負はどのようになったか忘れましたが・・・。 多分お母さんペアーが勝ったでしょう! その時、俺は二十歳ぐらいだったと思います。 それからお母さんが昭和42年の何月だったろう。 夏休みの前だったかな・・・。 経理課から俺と同じ課に配属され、 俺が勤務する現場に挨拶に来ましたよね。 その時から俺の心に火がついてしまい、 消すことが出来なくなりました・・・。 お母さんをデートにさそい、俺の気持ちを告白したよね。 迷惑だったと思いますが、 承諾してくれた時は本当に嬉しかったです。 俺が22才、お母さんが24才でした。 それから一緒になり 経済的・精神的・その他いろいろな面で苦労かけたこと 本当におわびするし、感謝します。 夫でありながら 頼りがいあるお母さんだったから、全面的に甘えてしまい・・・ 母のような、姉弟のような気さえすることがありました。 本当にありがとう。 また、娘二人を残してくれて本当にありがとう。 今回もよく手助けしてくれています。 定年後の約束事がはたせなかったのは 本当に残念ですが・・・。 これからも娘二人に協力してもらい、 頑張って行きますので、 夢枕に来て指示して下さい。 本当にお母さんに逢えて幸せでした。 ありがとう。 これからも宜しく見守っていて下さい。 おじいちゃん、おばあちゃん、お姉さん、お兄さんに 宜しくお伝え下さい。 来世も逢えることを楽しみにしています。 やすらかに。

母の死

昨晩は家に帰り、占いでいつもお世話になっている住職に電話をした。 やっぱり母を助けてもらいたいし、思いつく限りのできるだけのことはしたい。 住職は快く了承してくださり、私はいつも相手が電話を切るのを待ってから受話器を置くようにしているので、住職が電話を切ったのを確かめて、私も電話を切ろうとしたのだが、住職の電話が切れた後、すぐに小声で『おやすみ』という声がした。 「え??」 脳裏に母が思い出された。 すごく怖くて、電気を消せずに眠った。 が、夜中の3時半ごろ妹から電話があって、すぐに病院に来てほしいとO先生から電話があったと言う。 つまり、母の危篤の知らせだ。 私は父と二人で慌てて支度をして家を出たが、タクシーがなかなか捕まらないし、電話をしても病院へは行ってくれないと言うので、結局5時の始発に乗ることになる。 病院に着いたのは7時ごろだったが、母は5時32分に永眠したという知らせを受けた。 昨晩85を切っていた数値が一気に50以下になり、心肺停止したが、一度は蘇生でよみがえったらしい。 その後妹夫婦の方が先に病院に到着し、再び心臓が止まったので、心肺蘇生を試みる先生に「蘇生後に母は助かる見込みがあるのですか?」と尋ねると「ない」と言われたというので、もうこれ以上母を苦しめる必要はないと判断し、そのまま永眠という運びになったと言う。 先生は父と私に生きている母と対面させてくれようと思っていたみたいだったが、私は母の『おやすみ』という声を聞いていたし(後で照らし合わせると、どうもこのときが一度目の心臓停止の頃だった)、母の危篤の知らせを受けるまで、普段、滅多に夢など見ない父が、夢の中で高原を風に乗ってフワリフワリと浮かぶ元気そうな母と会っていたというので、きっと母の方が私たちに会いにきてくれたんだろうと思った。 ここ数日、ロクに眠っていないので、文章が変かもしれないが、なんとなくイメージでつかんで読んでほしい。 母を病理解剖したいとの申し出に一度は断ったが、母が何の病気と戦ったのか、それを知るということと、母を犯していた病巣を取り除き、きれいな状態でもうひとつの世界に送ると言う気持ちで了承してほしいとのことだったので、結局承諾した。 直接の死因は間質性肺炎。 肺の中に水が溜まっていて、これがどんなに利尿剤を

祈り

パルス療法はダメだったんだ・・・。 そう思った。 母は明らかに呼吸が乱れていた。 いつもなら呼吸数が20弱なのに、今日は50以上になっていて、しかも、血圧が170を越したりもする。 全力疾走した後のような荒い呼吸をしているのに、薬で眠っているから母の表情は穏やかで、なんだか妙にちぐはぐだった。 また、夜の面会では母の手に触れると、ズーンッと身体が重くなり、嫌な予感がする。 『あと2~3日かもしれない・・・』 母の肺も昨日までは95以上の数値をキープしていたのに、今日は85を切ってしまっている。 明日、肺の病態が進行してしまったら、こんどは75を切ることになるの?? そうしたら、もっともっと苦しげな母を見なければならないの??? 母はもう十分過ぎるほど頑張っていた。 それは毎日そばにいる私だからこそ、本当によくわかる。 それでも『頑張って!』『負けるな!』なんて言えなかった。 母にかける言葉がない。 だから、今日はこう祈った。 『助かる見込みがあるのなら、母に力を与えてください。でも、どうやっても、どう努力してもダメなら、もうこれ以上母を苦しませないで・・・!』

パルス療法の結果

肺炎を何とかするために試みたパルス療法は、昨日の20時ごろに終えていたはずだった。 妹はまだ熱があったが、18時からの面会には来るというので、午前の面会は父と二人で行ったが、父はその場にいられず、5分ほどして出て行ってしまった。 一人残された私は母の手をいつものように握り締めると、突然悲しみに襲われ、涙がぼろぼろとあふれてしまって、どうしても止めることが出来なかった。 一見穏やかな表情で眠り、普通に呼吸しているかのように見えるのに、私には感じられた。 母の肺の病態は進行していると・・・。 先生は外来で忙しく、パルスの効果についての説明は4時ごろに受けた。 数値的には画期的に効果があったものもあったが、肺炎は私の予想通り進行していて、これに関してはもっと悪くなるか、もしくは徐々にステロイドが効いてくるか、だと言われた。 とにかく一度今日は自宅に戻ることにする。 肺炎が何とか治まってくれたらいいのに・・・。

嫌な女

嫌なやつっているものだ。 実は、このパルス療法は母にとって最後の治療だと先生に言われていた。 これをやって助けられなかった場合、最高の治療をした結果だと思ってほしいと言われたのだ。 だからこそ、私たちは母の状態に敏感だった。 話すこともできず、薬で眠らされているのだから、表情で訴えることも出来ないのだ。 だから私たちは、どんな些細なことでも知りたかったし、変化があれば看護婦や先生にも伝えたいと思った。 だが、その女(看護士)は「母はどうですか?」の一言を聞いただけで鼻で笑い「そういうのは私たちに聞かれてもどうしようもないから、先生に直接きいて?」と言う。 まぁ、ここまではヨシとしよう。 だが「昨日より呼吸は安定していますか?」とか「今日は変わりないですか?」などの簡単なものにもばかにしたような口調で「先生に聞いて」と言うので、それがなんだか「うるさいよ」と言わんばかりの態度に思え、私はムカッとして 「これが最後の治療だと言われてしまったので、そう言われていれば家族が必要以上に母のことを気遣ったり、気になったりするのは当然じゃないですか?」 と、それでも感情を抑え、なるべく穏やかに言ったが、その女は 「そうだよね。まぁ、この方みたいな患者さんは今まで何十人と見てきたけど、まず良くならないよね。だから難病指定なんだし。だいたいこの方みたいに他の臓器も悪いとなると、今まで悪いパーツでバランスとってやってきたわけだから、寝込むような病気になれば、もともと悪いパーツだっただけにガタガタだよね。」と言ったのだ。 そんなことが聞きたかったのではない。 ただ、母の様子が知りたかっただけだ。 昨日と変わりないのかどうか。 私たちのような素人目で見るものではない何かがわかるんじゃないかと思ったから。 父はもともと母命で、しかも精神的に強くない。 それに、今日は妹が熱を出してダウンしていて、父も私もある意味バランスを崩していた。 だから、このばか女の心無い言葉にかなり動揺してしまった。 考えたくない文字が脳裏に浮かんでくる。 『死』 『一生このまま』 今日もホテルに宿泊したが、父も私も、たとえ母が車椅子になっても・・・なんて考えていたわずかな希望さえ、言葉に出来なかった。

パルス療法2日目

母の様子はあまり変わりないのかと思えば、なんだか苦しそうで暴れたりしている。 万が一管を引っ張られても困る、ということで、母は両手を結ばれているような状態だった。 点滴で眠らせる、と言っても、その点滴はだんだん慣れてきてしまうもののようで、覚醒しかけてくると苦痛を感じるようになる。 ただし、完全に目が覚めているわけではないので、吐き出すようなことはない。 けれど、さすってやることも出来ず、母の訴えを言葉として聞くことも出来ず、ただ苦痛に表情をゆがめながら暴れている母を見ているなんて、そんなことできるはずがない。 麻酔科の先生にそれを言うと、今夜から眠らせる点滴の配合を変えてくれることとなった。 今日もホテルに父と二人で泊まることに。 父は、たとえ母が車椅子になっても、面倒みたいと言っていた。 私もまったく同じ気持ちだ。 もしも今までのように自由がきかない身体になり、母の楽しみが大幅に減るのだとしても、車椅子で動き回ることが出来るのなら、母の大好きなゲームくらいは出来るだろうし、散歩くらい連れて行ってやれる。 それくらいの自由がゆるされてもいいはずだよね。 お母さん、明日でパルスは終わりだよ。 肺の状態が少しでも良くなっているといいね。

パルス療法

O先生から、今日からパルス療法を開始すると言われた。 14時~20時まで1000ミリのステロイドを投与する。 本当は2週間60ミリのステロイドを投与してからパルス療法を行う予定だったが、悠長にしていられる状態ではなくなったため、それで、すぐさまパルス療法を行うこととなったのだ。 母は寝巻きから着物のような浴衣のような寝巻きにすることになり、私たちは午前11時~午後1時までと、午後6時~7時までの面会時間を使ってICUに入り、母の手を握ったりしながら、母を見つめて過ごした。 そして、私と父の二人だけは、万が一の場合に備えて、病院から歩いて10分くらいのところのホテルに宿泊することにする。 「苦しい」「背中さすって」でもいいから、母の声が聞けたらいいのに。 ただ黙ってみていることしか出来ないなんて、もどかしいよ。