母の夢 母の声
『死』は突然やってくる。
何の前触れもなく、心の準備もないままに、本当に突然。
去る11月6日午前5時32分、私の母が他界した。
母は生前、とっても快活でパワフルな人だった。
寝込んだのは10月に入ってからだったが、それでも10月4日・5日と旅行に行ったりしたのだ。だが、10月14日に入院し、病名がハッキリしないままに27日に急変、28日に救急車で2時間もかけて新宿にある甲状腺専門の病院に転院し、そこで初めて「膠原病・皮膚筋炎」と病名を言われ、29日に再び今度は都立O病院に転院となり、2日後にはICUに入り、そうして6日には亡くなってしまうという、なんとも短い間のめまぐるしい出来事だった。
母が寝込むようになってから入院するまで、私たち家族はただの風邪くらいにしか思っていなかった。
母はいつになく気弱で「私、本当に元気になれるのかしら。なんだかこのまま元気になれないような気がしてならないのよね。」としきりに言っていた記憶がある。
私たちはそのたびに一笑し、そんなわけないじゃんと言っていた。
入院後も母は同じように「元気になれない気がする」と言っていたが、私たちはずっと『いつか必ず元気になれる』と信じて疑わなかった。
私たちが母の『死』を意識し始めたのは、都立O病院に転院してすぐのことだ。
担当医のO先生から、最悪の場合、今から早くて3~4週間かも・・・と説明されたからだ。
このことは誰も母の耳には入れなかったが、この日の夜、母が入院して初めて母の夢を見た。
実際は寝たきりで起き上がることの出来ない母だったのに、O病院では酸素マスクを着用していたのに、夢の中の母は酸素マスクをつけておらず、病院のベッドで上半身だけ起き上がっていて、母はその姿勢のまま、しみじみと「あのね、このまま回復しなかったら、私はやっぱり死ぬことになると思うの。」と言っていた。
夢の中の私はなんと言っていいか、母にかける言葉がなくて、しばらく沈黙が続いた。
今までのように「何言ってるの。そんなわけないじゃん。」などと気軽なことを言うことが出来なかったのだ。
しかも、この夢はこれで終わりだ。
そして、母がICUに入る前日、私は再び母の夢を見た。
母の夢と言っても、母と話すことはなく、そのときの夢では、どうやら母は14日に入院し、2週間ほどいた地元のK病院の一室にいるようだった。
K病院に入院していた頃と同じ6人部屋で、でも、母のベッドは実際とは違って一番奥の窓側にあって、大学生くらいの男の子が母の介護をしてくれているようだった。
私はその人に「これからは私たちで介護するので、もういいです。今までありがとうございました。」と言って帰ってもらうのだが、その若者は『なんで俺を帰すんだ。』と言わんばかりの不服そうな表情で何度か振り返りつつ遠ざかっていき、その途中で私はハッと思い立ち、慌ててその若者を呼び止めた。
今まで介護してくれていたのにタダで帰すわけにはいかないと思ったからだ。
だから、とにかく私は1万円をその若者に手渡すことにしたのだが、若者は怒ったような不快そうな表情をして、無言のまま1万円を受け取ると、機嫌悪そうに去って行った。
この夢はこれで終わりだ。
そうして、母はICUに入った。
パルス療法という治療を行っても容態は改善されず、母が亡くなる前夜、私は知り合いの住職と電話で話をし、住職が受話器を置く音を聞いてから、自分も受話器を置こうとしたその時、受話器から『おやすみ』という掠れたような声がして、ビクッとした。
母が私に言ったのだと思ったからだ。
そして、同じ頃、父は母の夢を見ていたと言う。
父は滅多に夢を見ない。
そんな父が珍しく見た夢では、高原のようなところを母が風に乗って、気持ちよさそうにふわふわしていたらしい。
父は夢の中でも母が病気で入院しているのだという意識があり「お前、大丈夫なのかよ。」と声をかけたが、母はそれには何も答えなかったそうだ。
そして、まもなく病院から母の危篤の連絡が入り、私たちが病院に到着したのは午前7時ごろで、父も私も母の死に目には会えなかった。
母が亡くなって、もう二週間以上の時が過ぎた。
自他共に認めるマザコンだった私は、母を失うということが自分にとって、どれほど絶望的で暗いものだろうと予想していたが、その予想は大きく外れることになった。
寂しくないのだ。
生きた母と会うことは、もうない。
それは当たり前だ。
死んでしまったのだから。
だから、母と直接話すことはないし、母の意見を聞くこともない。
位牌と、葬儀でつかった大きな写真があるだけだ。
もう、生きている母と会うことはないのだと思うと、それは素直に寂しいと思う。
だが、現実に存在していないだけで、私は『母』の存在を感じている。
それもごく身近に。
『霊』として会ったわけではない。
声を聞いたわけでもないが、そう遠くない、結構身近に、今までと変わりない母がいる気配がする。
存在感とでもいうのか・・・
そして、位牌と写真の前で話しをすれば、生前の母と話していたときとまったく同じ満足感を得ることが出来る。
それはきっと、生前の母とたくさんコミュニケーションをとったし、母が死ぬと思っていなかった頃から、母が寝込んで、やがて入院して、そして母が死ぬまで、私は自分の出来ることを自分なりに精一杯やることが出来た。
だから、後悔もないし、それどころか、私は今日まで母からもらったものがたくさんあって、母のことを思い出そうとすると、母からもらったあふれんばかりの愛情と、その記憶が次々と思い出されて暖かい気持ちになれるのだ。
母を思うと暖かい気持ちになれる。
思うのだ。
順番でいけば親が先に死ぬ。
それも、私のように、その死は予想もしていないときに、何の心の準備もないままに突然やってくるかもしれない。
でも、その後を生き残った私たちは生きて行かねばならない。
だから、そんなときが来ても後悔したり、死者をいつまでも引き止めるような未練を残さないように、普段からたくさんコミュニケーションをとるべきだし、いつでも自分の出来る精一杯のことをするべきだ。
特に、深い愛情を持っている相手ならなおさらだ。
私はあの母の子で良かった。
たとえあの世とこの世で別々の世界に生きることになったとしても、母と私は親子なのだ。
私はこの先、様々な出会いの中で、きっと母の話をするのだろう。
勝気で、快活で、おちゃめで、そして、父にうんと愛された自慢の母親として。
素材:Little Eden様