母の死
昨晩は家に帰り、占いでいつもお世話になっている住職に電話をした。
やっぱり母を助けてもらいたいし、思いつく限りのできるだけのことはしたい。
住職は快く了承してくださり、私はいつも相手が電話を切るのを待ってから受話器を置くようにしているので、住職が電話を切ったのを確かめて、私も電話を切ろうとしたのだが、住職の電話が切れた後、すぐに小声で『おやすみ』という声がした。
「え??」
脳裏に母が思い出された。
すごく怖くて、電気を消せずに眠った。
が、夜中の3時半ごろ妹から電話があって、すぐに病院に来てほしいとO先生から電話があったと言う。
つまり、母の危篤の知らせだ。
私は父と二人で慌てて支度をして家を出たが、タクシーがなかなか捕まらないし、電話をしても病院へは行ってくれないと言うので、結局5時の始発に乗ることになる。
病院に着いたのは7時ごろだったが、母は5時32分に永眠したという知らせを受けた。
昨晩85を切っていた数値が一気に50以下になり、心肺停止したが、一度は蘇生でよみがえったらしい。
その後妹夫婦の方が先に病院に到着し、再び心臓が止まったので、心肺蘇生を試みる先生に「蘇生後に母は助かる見込みがあるのですか?」と尋ねると「ない」と言われたというので、もうこれ以上母を苦しめる必要はないと判断し、そのまま永眠という運びになったと言う。
先生は父と私に生きている母と対面させてくれようと思っていたみたいだったが、私は母の『おやすみ』という声を聞いていたし(後で照らし合わせると、どうもこのときが一度目の心臓停止の頃だった)、母の危篤の知らせを受けるまで、普段、滅多に夢など見ない父が、夢の中で高原を風に乗ってフワリフワリと浮かぶ元気そうな母と会っていたというので、きっと母の方が私たちに会いにきてくれたんだろうと思った。
ここ数日、ロクに眠っていないので、文章が変かもしれないが、なんとなくイメージでつかんで読んでほしい。
母を病理解剖したいとの申し出に一度は断ったが、母が何の病気と戦ったのか、それを知るということと、母を犯していた病巣を取り除き、きれいな状態でもうひとつの世界に送ると言う気持ちで了承してほしいとのことだったので、結局承諾した。
直接の死因は間質性肺炎。
肺の中に水が溜まっていて、これがどんなに利尿剤をかけても、腎臓が弱っていたために十分に排出することが出来なかった。
母の腎臓は出血しながらも(排出される尿が真っ赤だった)、それでも頑張ってくれたようだ。
また、K病院で二週間もの間、誤診による見当違いの治療を試みていたことが、母の胎内にカビを余計にはびこらせ、腎臓も余計に悪くしてしまったのではないかと、O先生に改めて言われた。
O先生は、もしも10/14の入院時点で肺炎を見逃されず、すぐにこの治療を受けていたら、十分に助けられたのでは・・・との見解で、O病院に転院してわずか一週間ほどで逝ってしまった母のために、悔し泣きをしてくださった。
O先生は、K病院に今回の病理解剖の結果と死亡診断書を手紙つきで送ってくださると言う。
お母さん、辛かったね。苦しかったね。
ようやくおうちに帰れるよ。
私は悔しいよ。なんとしても助けたかったよ。こんな形で言葉もロクに交わすことも出来ずお別れだなんて、あんまりだよね。
お坊さんの関係もあり、お通夜は8日、告別式は9日になった。
母は穏やかな表情だ。
なんだか眠っているみたい。
死んでるなんて信じられないくらいに・・・。
それに、うっすらと微笑んでいるように見える。
あとで手紙を書こう。
母と言葉を交わせなかった分、お手紙を書いて渡してあげるんだ。
お母さん、本当に、本当に、お疲れ様。
おやすみ、お母さん。