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あなたに会いたい

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あなたも月が好きだった 星が闇に溶け 夜の静寂をぼんやり照らす金の月 今宵こそは会えるかと眠りに身を委ねても 声も 姿も 温もりも なにひとつ叶わない 不意に訪れた衝撃 砕け散った記憶の欠片 あのとき 私はあなたを失った あれからどれだけの時が過ぎても 悲しみは私の中に重く横たわり 傷跡は赤い涙を流したまま 少しも癒えることはない 夢で会えないのは 私の想いが足りない所為? それとも あなたは もう どこにも居ないというの? もっと もっと たくさんの時間が流れて 私があなたの歳に追いつく頃に ようやく会えるのかしら あなたに会いたい もう一度 あなたに会いたいよ 母の夢をなかなか見ることが出来ません。 妹は頻繁に見ているようで 母が仲良くしていたご近所のおばさんすら 頻繁に母の夢を見ているというのに・・・。 母に渡した手紙にも 「夢の中で会えたらいいナ」って伝えているのに・・・。 母を失って一ヶ月以上の月日が流れました。 そろそろ母と話がしたいです。 49日は偶然にもクリスマスイヴになります。 もしも願いが叶うなら サンタさんにお願いです。 「母に会わせてください・・・」 素材: Atelier N(アトリエ エヌ) 様

幸せ

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『幸せ』 毎日ゴロゴロして 台所もろくにしない 掃除も洗濯もしない それでもわたしは主婦 夫が帰るとネコみたいに甘えて 夫のひざに頭をのせたがる それでとても幸せ 時々急に 台所に駆け込んで嘔吐する 私のおなかには 三ヶ月の赤ん坊がいる それで 夫も幸せです 『可愛いやつ』 でっかいおなか抱えて よく働くお前 ときどきふくれて 困らせるときがあるが お前 本当はやさしいんだね いままでだいぶ心配かけたが ゆるしておくれ・・・ とにかく元気な赤ん坊 産んでおくれ これは私を妊娠中に 父と母との間で交わされたものです。 母が亡くなったばかりの頃 しばらくの間、父は頻繁に 「お母さんは俺と結婚して幸せだったのかな・・・」 と呟いていました。 ある日、私が母の遺品の整理をしている最中に、 父がまた、そう呟いたら、 唐突に、この2つの詩が見つかったのです。 まるで、母が「とても幸せだったよ」と 返事でもしたかのように・・・  「可愛いやつ」 こんな言葉は、母が生きていた頃、父から聞いたことはなく けれど、母を亡くした今 頻繁に父の口から出てくる言葉となりました。 「俺はお母さんが可愛くて仕方なかった」 母が生きているうちに言ってあげたらよかったのに・・・。 そう思っていたけれど 母は父の気持ち、ちゃんと知っていたんですね。 素材: STAR DUST 様

貴女が輝くとき

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― 人の命は星になり また蘇える ― どんなに手を伸ばしても どんなに大きな声で叫んでも 決して星には届かない いつかくる終焉とともに 増えていく星のひかり 曖昧に輝き始めたひとつのひかりは すこし酷薄で それでいてなぜだか美しい やわらかい月の裏には たくさんの傷があって 隠し続けて輝く姿が 美しく感じるのだろう でも 水面に映る月は 少し青白くて 裏面の傷をむき出している 見るたびに 辛い記憶が蘇る でも空を見上げれば 傷を隠して輝く月がいて どちらが本当の月なのかは 未だによくわからないけれど 少し青白い月も 綺麗だと思ってしまう ひとは 傷を負わずに生きてゆけない それを隠して美しく生き通すか それをむき出しにして美しく生き通すか 無数の星たちに囲まれている月は 傷を負っていても幸せに輝いている ― そう あなたは ひとりじゃない ― 辛いのは 辛くさせる何かがあるから 悲しいのは 悲しくさせる人がいるから そして 笑顔が素敵なのは  自分の笑顔を好きでいてくれる人がいるから ほら ひとりじゃない だから 前を向いて 涙を拭って それでも辛い記憶 忘れないで    前を向いて歩いていこうよ 貴女が輝くとき あなたがかがやくとき 辛く苦しいことを乗り越えたとき ― 笑顔が一番 素敵です ― 輝夜さんのお母様に、稚拙ながらこの詩を贈りたいと思います。 ご冥福をお祈りいたします。 そして、輝夜さんのこれからの活躍も、期待しております。 by 憂妃 憂妃さん、素敵な詩と、お心遣いのメール 本当にありがとうございました。 こんなこと、言っても仕方ないけれど やっぱり長生きして欲しかったと思ってしまいます。 多くの人がこの経験をするのでしょうけれど 経験した人にしか この傷の痛みはわからないですよね。 『ひとりじゃない』 この言葉は今一番ほしい言葉です。 私にとっても、きっと、母にとっても・・・ ※この詩はポエムサイト「月姿姫~ツキジヒメ~」を運営して

HappyBirthday

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HappyBirthday つぶやく私 それを伝えるべき人は もう どこにも居ないのに HappyBirthday あきらめられない まだこの先何度も この日を 祝うつもりだったのに いつか こんな日が来るとわかっていた でも まさかそれがこんなにも早く こんなにもあっけないなんて 『こんなのいやだよ!』 いくら駄々をこねても 変わらない世界 いっそのこと 真っ白な雪の下に埋もれて 何もかも消えてしまえばいいのに・・・ 12月15日は亡き母のお誕生日で そのとき本当なら61歳になるはずでした。 もうちょっとでお誕生日だったのになぁ。 私のお誕生日は11月17日でしたが、 母はそれよりも前に逝ってしまいました。 母のお誕生日。 もう二度と祝ってあげることは出来ないけれど、 できれば、あと20回は母のお誕生日を祝ってあげたかった。 本当に、残念でなりません・・・・・・。 素材: Blue Moon 様

母について

母は昭和17年12月15日に生まれました。 6人兄弟の末っ子です。 と言っても 母が生まれた頃は既に2人の兄弟を失い 4人兄弟でした。 おばあちゃんは言ったそうです。 「お前みたいな子供を『つるたごめ』と言うんだよ。」 『つるたごめ』とは 刈り入れ時がスッカリ終わり つる草だけになってしまったつるを片付けていると 出てくる取り忘れた小さな実のことだそうです。 母は小さくて痩せた子供でした。 でも とっても活発で気丈な娘でした。 運動神経も抜群で 亡くなる頃も母が37歳の頃から主催する バトミントンを続けていました。 小さな頃から動物が大好きで それは大人になっても変わらず 母が助けた犬や猫は数え切れないほどです。 父に見初められ 交際わずか半年足らずで結婚し すぐに私が生まれ その3年後には妹が生まれました。 私たち姉妹は親不孝ばかりしてきたけれど 母はいつでもどんなときでも一番の理解者で 一番の味方でした。 私は色々な人に母のことを話していました。 占いのお客様や会社のスタッフのみんな タロット教室の生徒たち ネット上のお友達にも。 私からの話ししか聞いていないのに 母に会ってみたい どんな人か見てみたいと興味を持たれることが多く 母はそれだけ 魅力ある人だったのだと思います。 母は町内会の役員もしていて 『婦人部』という新しい組織を作り 20年その婦人部長を務めました。 最後は三役のひとつ『会計』を引き受け 今年で最後の予定でした。 この十数年 母はゲームにもはまりました。 スーファミから始まって 母が好きだったゲームは ファイナルファンタジー マリオカート ボンバーマン ロマンシング・サガ ドラゴンクエスト アンジェリーク スーパーロボット大戦 バイオハザード 数え上げたらキリがないくらいです。 高校生の頃からの友人たちと集い 「さつき会」と命名し 旅行にも出掛けていました。 60歳になってもパワフルで 本当に元気だった母。 母は思うとおりに生き やりたいこと、興味あることはなんでもやって きっと悔いのない人生だっただろうと思います。

父に寄す

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月の光が 青白い線を引いている夜 一人 ピタピタと靴の音を響かせて歩いた 明るく仄かな灯りの我が家を目指して 歩きながら夜空を仰いで見た 視界いっぱいに夜空が広がる シネマスコープの様だ・・・ 情熱を秘めた星が無数 かすかに燃えていた 私はこの星空の下を どこまでも どこまでも 歩き続けたい衝動にかられた あの星が北斗七星 こっちの星がさそり座かな? 父の星はどれだろう・・・ いつも私を見守ってくれているのかしら お父さん・・・ とうとうお父さんと呼ばないうちに 貴方は私の前から消えておしまいになった 病の床でビールが飲みたいと駄々をこねた父 もう私のそばには帰ってこないの? お父さん 職場での憂さはどこで晴らしたらいいの? 私の苦しみを貴方は知っていて? もしも私がこの世にさようならをするとき 貴方はきっと迎えに来てくれるでしょうね そして 貴方のそばの小さな星に私がなることを 許してくださるでしょうね 私は望んでいるのです ほんのかすかな光でいい ちっぽけな星でいい 貴方のとなりにいさせて下さい おとなしくしています お邪魔になるようなことは 決していたしませんから・・・ 私は見たいのです 高いところからはるか下のほうの人間の世界を ひと目でいい 世界を眺めて 人間の生活とはこういうものだ 世界はこうなっているのだということを 私は知りたいのです 1961年12月8日 筆 さみしさに 我耐えかねて 仰ぐ空 はるかかなたに 亡き父の顔 この詩を私が目にしたのは 中学1年生か2年生のころでした。 母方の祖父(母の父)は この詩を私が目にした年と同じ 母が中学生の頃に 事故による脳内出血が原因で亡くなりました。 この詩をはじめて読んだとき 亡くなったお父さんを夜空の星にたとえて 自分をそのとなりにおいて欲しいと望んだ母を思うと 涙が流れました。 そして、この「父に寄す」をきっかけに 私は詩作するようになったのです。

母の病気

母は平成12年から甲状腺機能障害になりました。 当初は2年間『メルカゾール』というお薬を飲みましたが メルカゾールはアレルギーを起こす人が多い薬で けれど母は大丈夫でした。 甲状腺の状態が安定しましたので薬をやめましたが また悪くなってきたので 前回飲み終えてから丸1年以上してから 再びメルカゾールを服用したのです。 これと同じ頃に体調を崩したので メルカゾールの副作用だと思われてしまったのが 本来行われるべき治療が遅れた第一の原因でした。 実際の母の病気は膠原病でした。 しかも 中でも難病指定とされている『皮膚筋炎』という病気です。 母の入院中の様子などは「母の闘病日記」をご覧いただくとして 母の直接の死亡原因となったのは「間質性肺炎」です。 母の場合、入院時の胸部レントゲンにハッキリと映る 肺炎を見逃された挙句 見当違いの間違った治療を二週間も受けていたため 病状を悪化させ ほとんど手遅れのような状態で 専門的な治療を受けることになりました。 皮膚筋炎は肺に炎症を起こし呼吸困難をきたす間質性肺炎 とくにその急激に進行するタイプ(急性間質性肺炎)が 一番問題となっているのです。 残念ながらその原因はいまだ不明で 治療法も確立されていません。 この病態の解明と有効な治療法の開発が 膠原病の治療の中でも最も大きな課題となっています。 以下に記載したそれぞれの病気の説明文は 『家庭の医学』に掲載されている中から抜粋したものになりますが、 「間質性肺炎」の治療は副腎皮質ホルモン剤の投与一択という とてもシンプルな治療で、 家庭の医学には、効果は良好と記載されていたのですが、 まれに効かない場合もあるとも記載されており、 母はこの「まれ」に当たりました。 副腎皮質ホルモン剤(ステロイド)が効かず 肺に水が少しづつ溜まっていき まるでおぼれた人のように窒息死していったのです。 以下、家庭の医学より抜粋記述です。 膠原病-こうげんびょう- 体内の細胞と細胞の間 あるいは臓器と臓器の間をつないでいるのは結合組織で その主要構成成分はコラーゲンと呼ばれるたんぱく質です。 結合組織、とくにコラーゲン(日本語で膠原)を 全身的におかす病気を「全身性膠原病」と呼

体調不良から亡くなるまで

母が体調不良を訴えてから亡くなるまで 一ヶ月ちょっとという短い間でのできごとでした。 その背景には誤診・ずさんな治療・難病という 度重なるアクシデントがあげられます。 母は60歳でこの世を去らねばなりませんでした。 『死』は誰の身の上にもやってくる出来事です。 生まれたばかりの赤ちゃんであっても 元気で 沢山の人々の力になり まだ必要とされている人であっても。 母のような死も アクシデントも あなたや、あなたの肉親の身の上に 起こり得ることです。 母が体調不良を訴えてから入院し 亡くなるその日までの経過をお話しします。 どうか、母の死を見つめてください。 あなたや、あなたの大切な人々が 母のような死を迎えなくて済むように・・・。  < 簡単な経過説明 > ■2003年10月1日 母が体調不良を訴える。 身体がだるい・指の脇表面が痛い・太腿がガクガクするなど。 同時期に私も似た症状になったため、二人で風邪をひいたのだと自己判断していた。 ■2003年10月5日 母が学生時代の仲間との小旅行から戻ると、そのまま寝込んだ。 この時の母は、身体のあちこちに紅斑があり、口腔内にも唇にも口内炎が出来てきた。 食欲もなく、旅行中もアイスクリームしか口にしていないと言っていた。 ■経過その1 ハッキリした日にちは覚えていないが、入院するまでに2度ほどかかりつけ医の診察を受けたが、旅行から帰宅後はずっと寝たきりで、食欲もなく、倦怠感・口内炎・紅斑も継続、背中が痛いと訴えていた。 甲状腺が悪いためにメルカゾールという薬を飲み始めていたので、これのアレルギーかもしれないと考え、メルカゾールの服用をやめたが、改善されなかったため、K病院の皮膚科への紹介状を渡され、本当にメルカゾールのアレルギーなのかどうかを調べるように言われた。 母の唇に出来ている口内炎を見て、私達家族はヘルペスではないかと思い、かかりつけ医の先生に聞いてみたが、否定された。 この頃・・・母は予感めいた言葉を頻繁に言っていた。 『私・・・元気になれないんじゃないかしら。もとに戻れるのかしら。』 ■2003年10月13日 母は、歩いて3歩くらいのところ