体調不良から亡くなるまで
母が体調不良を訴えてから亡くなるまで
一ヶ月ちょっとという短い間でのできごとでした。
その背景には誤診・ずさんな治療・難病という
度重なるアクシデントがあげられます。
母は60歳でこの世を去らねばなりませんでした。
『死』は誰の身の上にもやってくる出来事です。
生まれたばかりの赤ちゃんであっても
元気で 沢山の人々の力になり
まだ必要とされている人であっても。
母のような死も
アクシデントも
あなたや、あなたの肉親の身の上に
起こり得ることです。
母が体調不良を訴えてから入院し
亡くなるその日までの経過をお話しします。
どうか、母の死を見つめてください。
あなたや、あなたの大切な人々が
母のような死を迎えなくて済むように・・・。
< 簡単な経過説明 >
■2003年10月1日
母が体調不良を訴える。
身体がだるい・指の脇表面が痛い・太腿がガクガクするなど。
同時期に私も似た症状になったため、二人で風邪をひいたのだと自己判断していた。
■2003年10月5日
母が学生時代の仲間との小旅行から戻ると、そのまま寝込んだ。
この時の母は、身体のあちこちに紅斑があり、口腔内にも唇にも口内炎が出来てきた。
食欲もなく、旅行中もアイスクリームしか口にしていないと言っていた。
■経過その1
ハッキリした日にちは覚えていないが、入院するまでに2度ほどかかりつけ医の診察を受けたが、旅行から帰宅後はずっと寝たきりで、食欲もなく、倦怠感・口内炎・紅斑も継続、背中が痛いと訴えていた。
甲状腺が悪いためにメルカゾールという薬を飲み始めていたので、これのアレルギーかもしれないと考え、メルカゾールの服用をやめたが、改善されなかったため、K病院の皮膚科への紹介状を渡され、本当にメルカゾールのアレルギーなのかどうかを調べるように言われた。
母の唇に出来ている口内炎を見て、私達家族はヘルペスではないかと思い、かかりつけ医の先生に聞いてみたが、否定された。
この頃・・・母は予感めいた言葉を頻繁に言っていた。
『私・・・元気になれないんじゃないかしら。もとに戻れるのかしら。』
■2003年10月13日
母は、歩いて3歩くらいのところにあるトイレにさえ這いずってじゃないと行けないような状態になり、これまでの症状が改善されないばかりか、嘔吐を伴うなど、酷くなってきたので、救急車でK病院に連れて行ってもらうが、入院させる理由がないと帰された。
紹介されていた皮膚科の先生もいないということも帰される要因のひとつだった。
このとき血液検査を行っており、白血球が3000くらいに減少している(通常は4000~8500らしい)ということがわかった。
■2003年10月14日
早朝よりSクリニックに電話して昨日のことを説明した上でK病院に電話を入れてもらい、それから再び救急車を呼んで、紹介状を持ってK病院に行ったが、皮膚科ではロクな検査もせずに内科へ回され、胸部レントゲンを2枚、血液検査などを行い、午後4時ごろ入院の運びとなった。
外科病棟しかベッドの空きがなくて、外科の6人部屋に入った。
外科病棟しかベッドの空きがなくて、外科の6人部屋に入った。
ここで重大なミスがあった。
この日の胸部レントゲンで肺炎が認められることが後にわかったのだ。
だが、実際にはこの日、その肺炎は見逃されてしまった・・・。
■2003年10月17日
腎センターの病棟に移り、担当医もK医師に変わった。
このK医師が後々に問題となる医師で、初めの頃から横柄な態度で母にも家族にも接していた。
食欲のない母は病院食もほとんど口にしないため、24時間点滴をすることになる。
また、夜になると高熱が出るため、熱を下げるために点滴内に抗生物質を混ぜて投与することになった。
このときの母の状態は、入院前の症状に加え、のどに白いカビが生えており、紅斑は背中一面・胸部・腹部・耳・手に出ていた。
カビをとるためのうがい薬が与えられた。
■経過その2
■2003年10月27日
母の容態が急変。
10/24から『抗生物質熱』を疑い、全ての点滴をはずされていた母は、この4日間で一回り小さくなり、ロクに食べていなかったので相当の栄養失調になっていたと思われる(この4日間、栄養補給を行う点滴などは一滴も行われなかった)が、この日の朝、母は泣きはらしたようなむくみがあり、心不全を起こしかけ、呼吸不全の状態にあった。
リカバリー室に移され、酸素ボンベを着用し、尿道に管を入れられる。
胸部レントゲンも撮り、K医師から肺炎になっていること、今夜が山かもしれないこと、原因がハッキリしないので、甲状腺が悪いのはわかっているから、わかっているものからひとつづつ治療して進んでいくしかないので、明日原宿のI病院に転院させるという説明を受けた。
心不全を起こしかけている人間を片道2時間もかかる病院へ転院させていいものか不安で、Sクリニックの先生に相談したが、S先生はすぐに「そんなのダメだよ!今動かしたら死んじゃうよ!」と言ったが、その後、K医師に問い合わせてくれたらしく、母の心不全が落ち着いたので転院させるのだという話だったそうだ。
■2003年10月28日
この日の胸部レントゲンで肺炎が認められることが後にわかったのだ。
だが、実際にはこの日、その肺炎は見逃されてしまった・・・。
■2003年10月17日
腎センターの病棟に移り、担当医もK医師に変わった。
このK医師が後々に問題となる医師で、初めの頃から横柄な態度で母にも家族にも接していた。
食欲のない母は病院食もほとんど口にしないため、24時間点滴をすることになる。
また、夜になると高熱が出るため、熱を下げるために点滴内に抗生物質を混ぜて投与することになった。
このときの母の状態は、入院前の症状に加え、のどに白いカビが生えており、紅斑は背中一面・胸部・腹部・耳・手に出ていた。
カビをとるためのうがい薬が与えられた。
■経過その2
K医師はメルカゾールのアレルギーと考えて治療にあたっていたが、治療によりカビと口内炎は治ったものの、一向に症状が改善されないため、他の病気である可能性を考えて色々検査することになる。
ちなみに、のどに生えた白いカビは「イースト菌」であると説明された。
胃カメラ検査で食道や胃にカビが生えていないか検査し、足の付け根(股)から血液を採取して検査を行ったが、どれもこれも母の病の原因を割り出すデータは見つけられなかったとのことだった。
■2003年10月27日
母の容態が急変。
10/24から『抗生物質熱』を疑い、全ての点滴をはずされていた母は、この4日間で一回り小さくなり、ロクに食べていなかったので相当の栄養失調になっていたと思われる(この4日間、栄養補給を行う点滴などは一滴も行われなかった)が、この日の朝、母は泣きはらしたようなむくみがあり、心不全を起こしかけ、呼吸不全の状態にあった。
リカバリー室に移され、酸素ボンベを着用し、尿道に管を入れられる。
胸部レントゲンも撮り、K医師から肺炎になっていること、今夜が山かもしれないこと、原因がハッキリしないので、甲状腺が悪いのはわかっているから、わかっているものからひとつづつ治療して進んでいくしかないので、明日原宿のI病院に転院させるという説明を受けた。
心不全を起こしかけている人間を片道2時間もかかる病院へ転院させていいものか不安で、Sクリニックの先生に相談したが、S先生はすぐに「そんなのダメだよ!今動かしたら死んじゃうよ!」と言ったが、その後、K医師に問い合わせてくれたらしく、母の心不全が落ち着いたので転院させるのだという話だったそうだ。
■2003年10月28日
I病院へ転院。
父が母に付き添って救急車に乗る。
K医師も同乗した。
私は妹の運転で後を追った。
無事病院への転院は済んだが、I病院のH医師は母の容態が想像以上に重篤であることから、これは甲状腺が問題ではないと判断。
すぐさま血液検査・心電図・CTスキャンなどの検査を行い、他の先生方とも協議するなどして、ものの数時間で『膠原病・皮膚筋炎』と断定。
H医師の説明によれば、酸素ボンベもK病院では粗末なものしかつけられておらず、これでは呼吸不全を起こしている母が充分に酸素を得ることが出来ないとのことで、酸素マスクに変更。
ここでは専門的な治療が出来ないので、明日にでも専門的な治療を受けることが出来る病院を紹介するので、転院した方がいいと言われた。
H医師はK医師の口頭での説明やK病院での治療について「何が言いたいのか、何がしたいのか良くわからないし、治療も中途半端」と首を傾げており、そもそも母のような呼吸不全を起こしている人間は、まずは酸素を確保することを優先させるべきなので、2時間もかけてわざわざ甲状腺専門のI病院に転院させなくても、もっと近くの病院で呼吸不全の手当てをするべきだった・これは正直言って見当違いの転院だ、と言っていた。
O病院へ転院。
ここが母の入院生活最期の病院となる。
酸素マスクを着用しながらリカバリー室の隣の部屋に入る。
担当医のO医師より、この部屋は2番目に危険度の高い人が入る部屋だと説明され、このとき初めて母の状態が深刻であること、そして、最悪の場合、早ければ2~3週間の命だと言われる。
口内は牛乳を温めたときに出来る膜のような白いカビが一面にびっしりと生え、これは後にイースト菌ではなくカンジタ(O医師によると、アルビカンスという名の菌で、免疫力が極端に低下したエイズ患者などに生えるようなものらしい)であることが判明。
O医師も、なぜこんなにも重篤な呼吸不全を起こしている患者を2時間もかけて転院させたのか、この2時間がどれだけ母にとって負担だったか、よく心臓が止まらなかったとK病院の対応について憤慨していた。
なにしろ、酸素ボンベは2時間ももつようなものではないので、たとえ予備を積んでいたとしても、一刻も早くきちんとした設備のもとで酸素の確保をしなければ命の危険があったと言うのだ。
さらに、K病院に入院時の胸部レントゲンで肺炎を見逃さず、そのときにしかるべき治療を行っていたなら、こんなにも酷い状態にならずに済んだはずだと。
とにかく、今後の予定としては、2週間60ミリのステロイドを点滴で落とした後、パルス療法という1000ミリ単位のステロイドを3日間点滴で落とす治療を行う方向性となった。
母の容態が急変。
60ミリのステロイドを30日から始めたが、肺炎が広がり、自発呼吸では酸素が得られなくなってしまったため、口内に管を入れて肺に直接酸素を送り込む方法をとることとなった。
このため、早朝からICUに入ることに。
たんぱく質が極端に少ないことや、食べれないので点滴以外の栄養補給がまったく出来ないこと(食べ物には沢山の細菌があるため、母のように免疫が極端に低下している場合は、食べ物を摂取することでカビを増やす原因になる可能性があるとのこと)、膠原病だけではなくウィルス感染の恐れがあることなど、様々な問題を抱えながらの治療で、とにかく母はこの日から点滴で眠らされたので、意識のあった母と話せたのは10/30が最期となった。
鎖骨から管を入れて薬や栄養を流し込む道を確保、常に血中の酵素などを調べるための血管代わりの管を足首に作り、酸素を確保するための管・胃液を吸い上げるための管・胆汁を吸い上げるための管の計3本の管を鼻や口内から差し込み、万が一覚醒して暴れたり、管を引っこ抜かれてはいけないとの事で、両手両足を縛られるという、痛々しい姿に・・・
■2003年11月1日
当初の予定では2週間ステロイドを投与してからパルス療法を行う予定だったが、母の容体が悪化したため、当初の予定よりだいぶ早いが、パルス療法を開始する。
母を眠らせておく薬に母が馴れてしまうらしく、覚醒しかけて一日中苦痛に表情を歪めながら暴れているため、見るに耐えないので医師に相談し、もうすこし強いものに変更してもらった。
熱が微熱程度に下がり、呼吸も血圧もとりあえず安定している様子。
パルス療法を終え、引き続き60ミリのステロイドを点滴で落としていたが、胸部レントゲンでは、肺炎は肺いっぱいに広がっていた。
膠原病を示す数値はとても良くなっていたが、肺はまるでタバコの煙を肺の中に吹き込んだように白くもやがかかっていた。
O医師は2~3日後に効果が出てくる場合もあるから、と希望を捨てていない様子。
■2003年11月5日
肺に直接酸素を送るようになり、機械の数値で95以上は酸素が入っていなければならない状態だったが、この日は85を切っていた。
母の呼吸数も普段は20弱なのにこの日は50以上で、明らかに荒い息をしている。
薬で眠らされているため、表情はとても穏やかなのに、息遣いだけが、まるで全力疾走後のように荒いのだ。
足の裏は水分がなくなって、カサカサどころか、白く硬化していた。
O医師は肺に水が溜まってきていて、これを抜くために利尿剤を使っているが、うまく抜けてくれないと言っていた。
■2003年11月6日
夜半ごろ、心停止。
心肺蘇生で戻るが、不安定な状態を繰り替えし、午前5時32分に永眠。
享年60歳。
直接の死因は皮膚筋炎による『間質性肺炎』だった。