父の定年退職に寄せて




2005年3月31日、父が定年退職を迎えた。

父は高校を中退し、中途採用という形で、この会社に入った。
父は元々は九州出身だったので、神奈川に出てきて、この会社に入ることとなったのは、後の運命を考えると、やはり父にとって人生の大きな転機と言える。
この会社に入らなければ、母と出会うことはなかったのだから・・・

この会社は名の知れた車の大手産業メーカーだ。
父たちの時代では、ここに就職できたなら、もう将来は安泰と思われたようなところだろう。しかし、倒産しかかり、会社生命をかけた苦難の時代がしばらく続いた。
この頃、父は色々な理由から思い悩み、体重も10キロくらい減ってしまった。

その理由のひとつには、私にも責任がある。

私は20代前半で結婚し、実家の隣家に住むことになった。
この家は父たちの持ち家であり、私たちが結婚する頃に購入した家だった。
父たちの考えとしては、少しでも私たちに何かを残そうという気持ちがあったようだが、私は数年後に離婚してしまった・・・

それ以後、父はこの家の借金がとても重荷に感じていたようだ。
自分たちが住んでいる家のローンはほぼ終わっていたのに、新たに背負うこととなった隣家のローン。
それでも、私が継いだなら、これも意味のあるものだと思えたのだろうが、私は離婚してしまったし、しかも、占い師などという、父から見れば何の保証もない不安定な仕事をしている私に、期待が持てなかったようだ。

そこへきて、勤め先が倒産するかもしれないという不安感。
倒産しなかったとしても、リストラされるかもしれないという不安感。

父は本当に長い間、毎日毎日ふさぎこみ、夜勤の日などは、昼間は寝ていなければならないのに、眠れないらしく、無言のまま熊のようにウロウロと部屋中を歩き回り、そんな日々を数ヶ月も過ごした。

いつも強気な母が私に「お父さん、自殺するかもしれない」などと弱気になって助けを求めてきたほどに、父の様子は深刻に思えた。

私は父に言った。

「お父さんの会社が倒産しかかっていて、生き残るために人員を削減しなければならないという事情は私にだって良くわかる。削減するなら年寄りから・・・というのも、仕方がないことなんだろうとも思う。でもさ、身内の私としては、お父さんたちが今までの会社を支えてきたのに、そんなお父さんたちから真っ先に首を切られるなんて、やっぱりくやしいよ。」

でも、父は言った。

「いや、俺は今の会社に感謝している。ここで働いていなければ、今の生活はない。○○(会社名)様様だよ。」

父は苦しんでいたが、ついに一度たりとも会社の愚痴や悪口を言うことはなかった。

父は何度か辞職しようとしたことがある。
会社側が、今、退職するなら退職金に○○円上乗せするという条件を出して、何度か退職者を募ったからだ。
しかし、母がなだめすかし、ともすると、不安で崩れそうになる父を懸命に支えた。

そんな母も2003年11月に永眠することとなり、もう、この頃になると、父は肩の力を抜いて、定年を迎えられるだけの状態が整っていた。

母なくして父は、定年と言うこの日を迎えることは出来なかったはずだ。
だからこそ、父にとって、ひとりで迎えることとなったこの日に、母がいないことが、どんなにか寂しく、辛いことだっただろうか・・・

母は生前言っていた。

「お父さんが定年したら、テレビを買ってもらえることになってるの。大きい画面の液晶テレビ。早くそれでゲームをやりたいわね!」
「お父さんが定年したら、家族みんなで旅行に行こうか。うちがみんなの旅費を出すからさ。」
「台所と居間の間の壁を抜いて、カウンターを作ってさ、ダイニングキッチンにしたいわね。」

母も母なりに、父の定年を楽しみにしていた。
こんな母のささやかな願いは、結局叶うことはなかったが・・・

母はどこかで見ているだろうか。
父が無事に定年の日を迎えられたことを、ちゃんと知っているだろうか。

「これはすべて、お母さん、あなたが頑張ってお父さんを支えたからだよ。お母さんが居てくれたから、お父さんは頑張って来れたんだよ。」

私のこの言葉は、母には届かないのかもしれない。
けれど、言わずにはいられない。
母にとっても「やれやれ」と、ようやく肩の荷が下りる記念の日でもあるのだから・・・

お父さん、長い間お勤め、ご苦労様でした。

お母さん、お父さんが無事に定年の日を迎えることが出来て、本当に良かったね。


素材:十五夜


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