私の想い
『後悔先に立たず』ということわざがあります。
ものごとが終わった後になって、あれこれと悔やんだり残念がったりしても、いまさらどうにもならないという意味です。
母が亡くなり、私の心の中に後悔が残るとするなら、第一に、こんなにもそばにいながら、なぜ母の病にもっと早く気付いてやれなかったのか。
そして『自分は素人だから』という思いの裏に隠れて、不審に思う医師の診断や治療に、なぜもっと強く抗議しなかったのかということ。
母側から見れば、私がバツイチであること。
いくつになってもマザコンで、甘えてばかりいて自立しようとしないこと。
孫の顔を見れないことなど、私への色々な不満があったかもしれない。
でも、私は親不孝だと言われても、こうしてずっとずーっと長く母のそばにいて、長い間母を独占し 甘えられたことは幸せでした。
母は本当に色々な話をしてくれました。
私も色々な想いを母に打ち明けました。
母の若かりし頃のこと。
学生時代や社会人になって出来た仲間のこと。
飼っていた犬のこと。
ニワトリのお話し。
おじいちゃんとおばあちゃんが交わした約束のこと。
父に内緒で買ったアクセサリーの数々。
父とのなれそめ。
よく読んだ本のあらすじ。
二人で夢中になったゲームのこと。
お互いの人生観。
毎日毎日繰り返される同じような時間。
ときには激しい怒鳴り合いの喧嘩をしたこともあったりして、でも、親子だから『昨日はごめんね』なんて言わなくても、何となく仲直りして、いつもの毎日がすぐにやってきました。
顔を合わせない日なんてなかった。
言葉を交わさない日も一日だってなかった。
だからと言って、毎日が特別な一日だったわけではなく、他愛もない世間話しや愚痴の言い合いだったりして・・・。
そんなことの繰り返しがあったから、母亡き後、悲しいけれど 寂しいとは感じないのです。
『母が死んでしまった』
この出来事が悲しいのであって、私の心の中には母がくれた暖かい愛が、まるで冷めない湯たんぽのように存在していて、仏壇の前のお位牌と話しをするだけで、生前、母と語り合った頃のような充実感が得られます。
母が死んでしまったから、だから、もう母にしてやれることはなにもない。
そんなふうには思いません。
確かに母はもう居なくなってしまったけれど、母がせっかく私の情緒をいっぱい刺激してくれたのだから、『母の愛』がどんなものなのかを沢山この身に受けたのだから、私も母に負けないくらい、精一杯生きていきたいと思います。
母はきっとどこかで私たちを見ていてくれるでしょう。
私が小学生だった頃、初めて迎えた運動会のリレーで、母は私に期待していました。
なぜなら、母の子供時代は運動神経抜群で、市の代表選手に選ばれたこともあったのですから。
そんな自分の娘が、遅いはずがない!と思っていたわけです。
当然、私が先頭を威勢良く走ってくると思い込んでいました。
けれど、私は息苦しそうに後ろの方を走っていて、挙句に、派手に転倒して大泣きし、見るも無様なものでした。
母は「ほんっっっとうにガッカリだったわ」と言っていました。
母が死んでまで、こんなふうにガッカリさせるわけにはいきません。
「見て!あの子が私の娘なのよ。」
そう、自慢げに、あの世で母がお友達になった人に言えるような、そんな娘でありたいものです。