入院・その9



病気の人も、介護する側も、それぞれがそれぞれに色々な想いや葛藤があったりして、深刻であればあるほど大変なものだ。

母の病気が何なのかは、まだ不明だが、たとえ病気が風邪であったとしても、母はこのままでは確実に死に向かっているような気がしてならなかった。

「抗生物質熱」を疑い、点滴をやめた途端にやせこけてしまった母。
たとえロクに食べていなかったとしても、あの24時間点滴は母の症状を現状維持していてくれてたんだと、こうなって初めて思い知らされたことだった。

あんなにやせてしまうなんて・・・。

このままではいけないと思った。
もう病気か、そうじゃないかは関係ない。
キッカケは『薬の副作用』だったとしても、今の母はまるで拒食症の人のようだ。

あれは嫌い。
それはダメ。
これは食べたくない。

こんな状態になってまでそんなわがままばかり言って、生きるということに必死にしがみつこうともせず、何の焦りもないような状態の母。
『病気なのだから』という想いにあぐらをかいて、努力しようとしない母。
そのわがままが命取りになるかもしれないのに。

私が病院に到着すると、病室の入り口にある母の名前だけにランプがともっており「何かあったの?」と思いながら部屋へ入ると、それは母が看護婦を呼ぶためにブザーを押しているという印だった。
どうやらトイレに行きたくてブザーを押したようなのだが、人手が足りなくてなかなか看護婦がやってこないようだった。

「トイレに行きたいの?」
と私が尋ねると、母は苦痛にゆがんだような表情で何度もうなづいている。

私はすぐに車椅子を取りに行ったが、点滴をしなくなり、食べもしない母は以前よりも痩せてしまったために、もっと体力がなくなり、苦しみと辛さが悪化していた。
便座に腰掛けておしっこをしているときも、以前は「座っているのも疲れるのよ」と言っていたが、今日はそんなことを言うどころではない。
おしっこをしている間中、苦しみうめき、便座の上で右に左に身体をくねらせながら、いわゆる上半身でのたうちまわっているような状態。
いつもならトイレが終わったあとビデで洗ったりしていたが、もう拭くことさえまともに出来ない。早々に下着をつけ、車椅子に乗り「早く横にならせて」と悲鳴に近い叫びをあげ、ベッドに倒れ込むように横たわって、それからしばらく苦痛にうめきながらそこでものたうちまわらなければならない。

もちろん介護する私たちの負担もその分増えることになる。
見ているこっちも辛くなるし、あっちをさすり、こっちをさすりしながら落ち着くのを待つのだが、全身汗だくになるほどだ。

そうしてようやく落ち着いてくる頃合を見計らって
「今日は何を食べたの?」と尋ねると、母は嫌な顔をしてしばらく返事をしないので
「何も食べなかったの?」と言うと、ようやく
「リンゴジュースは飲んだよ。」とかすれた声で答えた。

朝食で、おもゆや3種類ほどのおかずの他にリンゴジュースが出たようなのだが、母はそれだけを口にしたわけだ。

しかも
「お昼は?」と尋ねたら
「お昼はまだ。」と言う。

私が病院へついたのは15時少し前だ。
お昼は当然終わっている時間だから『まだ』なわけないのだ。
つまり、何も食べていないのだ。

私は覚悟を決めた。

介護だけで助けることは出来ない。
母も病気と闘いながら頑張ろうとしてくれなければ、たとえ死ぬような病気ではなかったとしても、助けることは出来ないと思ったのだ。

これは母に自覚してもらう以外に道はない。
こんなときこそ母ときちんと心を通い合わせなければ、もうどうすることも出来ない。

そう思った私は、母に言った。

「お母さん、ちゃんと食べなくちゃ、このままじゃ本当に死んじゃうよ。まだ死にたくないでしょう?」

すると、母は
「もう死んでもいい。」と答えたので、私は声を荒げて

「何言ってるの!?お母さんがそんな気持ちでいたら、気まずい思いをしながら会社を休んで介護しに来ているお父さんや私はどうしたらいいわけ!?」

と言った。
私の声が大きかったので、同じ部屋の他の人たちに聞こえたのだろう。
部屋中が一瞬にしてシンとなった。

でも、私はかまわずに言った。

「お父さんも私も妹も、お母さんを助けようと思って必死に頑張っているんだよ。なのに『死んでもいい』なんて、何考えてるの!?」

母は神妙な表情で黙り込んだが、私は畳み掛けるように

「言っておくけど、今のお母さんはハッキリ言ってガイコツみたいだよ。ちゃんと食べなきゃ本当に死んじゃうからね。」

と言って、一度部屋を出た。

病室の外にある冷蔵庫の中に母のカキ氷が入っており、それを取りに行きながら、母は今の私の言葉をどう受け止めただろうかと考えた。

本当なら病気で弱っている人間に『死』という言葉は言うべきじゃないかもしれない。
でも、今、母にそれを言わなければ、本当に死んでしまいそうな気がしたのだ。

『死んでもいい』と思うことと、実際に死ぬことになるという可能性が現実に迫っているということは、まるで違うことだと思うのだ。
だからこそ、だらしない甘えは正さなければならない。
それは今より他にないのではないか。

そんなことを色々考えながら病室に戻ると、母は相変わらず神妙な表情で、いつもならうんうん唸っているのに、唸り声ひとつあげず、じっと天上を見つめていた。

私は母にカキ氷を食べさせてあげながら、すこし穏やかな口調で

「お母さんが病気で苦しいのは良くわかるんだ。食べたら吐くかもしれないし、吐くのも辛いよね。のども痛くて飲み込むのも辛いし、その後、胃がキュウッとなって苦しいというのも良くわかるよ。でも、今のお母さんは悪循環だと思うんだ。病気でずーっと食べていなかったでしょう?だから、身体も衰弱したし、胃も長いこと使っていなかったから、ただでさえ衰弱して荒れたりもしたから、ちょっとのものでも受け付けなくなってしまったり、苦しくなったりするんだと思うんだ。でもね、食べなかったら衰弱していく一方でしょ?助かるものも助からなくなっちゃうよ。お母さんにはお母さんなりの思いや考えがあると思うんだけど、私たちから見ると、どうしてもお母さんが食べようと努力していないように見えちゃうんだよね。食べて苦しいときはちゃんとさすってあげるよ。私も一生懸命頑張るから、だからお母さんにも頑張ってほしいんだ。」

母はもともと素直な性格ではない。
だから『そうだね。』とか『そうするよ。』とか『ごめんね。』なんて言えないのだ。

でも、代わりに母は

「スイカが食べたい。それとソーダ水が飲みたい。」

と言った。
これが母なりの『わかった。私も食べようと頑張るよ。』ということなのだ。

私はミツヤサイダーと小ぶりの1300円のスイカを買ってきた。
私自身はスイカが嫌いなので、こんな時期はずれのスイカがおいしいのかどうなのかわからないが、母はおいしいと言って、1/8くらいだが時間をかけて食べた。

本当は父が仕事に行く前に早起きしておかゆや飲み物を作ってくれたのだが、母はそれは食べたくないと言って一口も食べなかった。

私は母が固形物を食べた場合、その倍くらいの水分を摂取させようと考えている。
消化するのに水分が多量に必要だと思うからだ。
だが、それを母に悟られては、母としては『ノルマ』と感じてそれがプレッシャーになるに違いない。
だから、悟られないようにしながら、それをする必要があった。

体中をさすってやりながら、焦らないように小分けにして、水やサイダーを飲ませてやる。
結構飲んだ。

今日はいないはずの母の担当医がその後に顔を出した。
K先生の話だと、胃カメラの検査では異常がなくきれいだと言う。
だが、結核の検査をしているはずで、その結果を言わずに戻って行ってしまったので、私はもっと詳しい経過も聞きたいと思い、先生のあとを追いかけた。

すると、先生は他の看護婦がびっくりするほどの大声で

「そんな一人一人に経過なんか話していられないよ!お父さんと妹さんに伝えてあるんだから、聞いてください!」

と言うので、私は

「でも、結核の検査結果は聞いていないんですよね。」

と言ったら、先生は目を丸くして

「え??」みたいな状態になった。

どうやら、昨日結果が出ているはずなのに、それを確かめるのを忘れてしまったようなのだ。腕に注射みたいなものをして反応を見るような検査らしく、それを昨日見忘れたということだ。
だから、母の結核の検査は再度やり直さなければならなくなった。

しかも、その言い訳に「私も色々昨日は忙しかったから。」などと言っている。
そんないい加減なことをしていて、よくも私を怒鳴ったり出来たものだ。
もしも母に何かあったら、私はあなたの対応を徹底的に追及していくからね。

父が仕事帰りにやってきたので、車椅子を取ってくるフリをして父を病室の外に連れ出し、母が死んでもいいと言っていたので警告したということと、母も頑張ろうと努力しようとしていることを告げた。
その後、父は私が少し席をはずしたときに、母の前で思わず涙が出たそうだ。
母が自分の人生をあきらめてしまっていると知って、悲しくなってしまったのだそうだ。

私はいい機会だと思って、父と二人で今夜はいろんな話をした。
これまでの私が個人として、そして占い師として感じてきた父のこと、母のこと、妹のこと、自分自身のこと。

それぞれの個性を中心にしていられる事態ではないと思ったからだ。

母は知っていて父は知らないという私や妹に関する出来事はたくさんある。
でも、それを今こそ父に打ち明けて、もっと家族が一丸となれるようにしなければと思ったのだ。

父は私が高校生の頃、自殺未遂をして警察沙汰になっていることさえ知らないのだ。
妹がなぜ離婚することになったのか、どんな学生だったかさえ知らないのだ。

だが、父が知らない私たちの過去が、そのトラウマが、現在の私たちに大きな影響を与えていることは多々あり、母が入院し、父がそのトラウマとなっている過去を知らないために、私たちは何度も何度もぶつかってしまうことになり、意見もばらばらでまとまらず、家族でありながら信頼関係ももろい。

父は真剣に私の話を聞き、その後で

「俺は何にも知らないんだな。ダメな親だな。」と言っていた。

そんなことはない。
ダメな親ではないのだ。
父に悟られまいと母と妹と私の3人でうまくごまかしてきたのだから。

父は感情的で、短気で、否定的な人だったから、父に言ったら余計に傷を広げられてしまうと思うようなことが多々あり、何度か改善を試みたが難しく、いつしか『これは言っても大丈夫。』『これは言わない方がいい。』と使い分けるようになってしまっていた。
全員が健全であるうちはそれで良かったが、母が倒れ、バランスが欠けてしまうと、こんな理想的ではない状態では、困難に立ち向かえないのだと、今回つくづく感じた。

父は私の話を理解してくれて、心を合わる努力をしようと約束してくれた。
「俺のことだから、お母さんが元気になったらもとのもくあみだろうけどな。」と言っていたが、それでもいい。

明日から、またどうなるかわからない。

きっと私たちはまだ、これから何度も話し合わなければならないし、母も今日は頑張ってくれたが、きっと苦痛にくじけてしまうことだってあるだろう。
でも、絶対にあきらめないで、投げ出さないで頑張らなければ。

だって、命がかかっているのだから。


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